隠れとろみの隠れ家
日常で考えてる非日常をいちいち文字にしてみたい。 さらに共感も得られれば尚よろし。
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2010/07/03 Sat  23:40:02» E d i t
 »  
最近、旧友や親戚と積極的に会うようにしている。

中には7年ぶりの友や、10年ぶりに会う親戚もいる。

昔話に華を咲かせながらコーヒーを飲む。



芯のある奴は変わらない。

相変わらず全力で日々の生活を送っている様子を聞いて、ものすごく刺激を受けた。

負けたくないって久しぶりに思ったなぁ。



逆に社会人になって、魅力が無くなった人もいる。すごくすごく残念だ。

きっと、いろんなことに負けまいと必死に頑張ったんだろう。

その結果、「シャカイジン」に変身してしまった。


かくいう俺も、あやうくその罠にかかるところだったのは、ここだけの話。



いずれにしても、道を切り開くためには、自分の頭で考えなきゃならない。

考えるためには、まず知る必要がある。

知らないくせに、知った顔をして踏ん張ってたのは去年まで。

今年、まずは土俵に立つ。




ところで、

「社会人はまず3年やってみろ」

とよくいわれる。



3年やったら手遅れだ。バカ。
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2010/06/02 Wed  14:16:28» E d i t
 » 再始動 
現在、転職活動中、退職から2ヶ月が経過しようとしている。

あまりに時間を持て余してしまっているので、
将来の自分が、この貴重な無職期間を振り返ることができるように、
また、少し、頭の中にゴミゴミしているものを吐き出すために、
ぼちぼちブログを再開しようかと思っている。

でも、もしかしたら社会人一年間で強烈に感じたことが、
再度筆を執らせる最大の誘因になっているのかもしれない。

それは、

「他人は自分の人生を生きてはくれない」

ということ。
そして、それは同時に、

「自分の想いを代弁できるのは自分しかいない」

ということでもある。


社会、会社、同僚、友人、恋人、家族・・・。
自分と関わりの深いコミュニティーほど、自分に影響を与える。
そして、そのコミュニティーに自分を投影すればするほど、
自分を見失う原因になり得ることを自覚しなければ、
後々大きな後悔をすることになる。

私は今、まさにその後悔をしている真っ只中にある。

このブログへの再投稿では、自分の頭の中の想いや考えを活字とすることで、
主体→客体と転換し、自分の想いや考えを客観的に眺め、
「今の自分はこういう考え方をしているんだ」
とじっくり咀嚼してもう一度飲み込もうと思っている。

そのためには誰に気兼ねすることもなく、思ったことをそのまま発信することが重要だ。
私はこれまで周囲の反応を気にしすぎるあまり、断定を避け、表現を曖昧にするだけでなく、
いつでも批判をかわせる文章に仕立てることに気を配ってきた。

ただ、それじゃ、いつまでたっても
「じゃあ、一体お前は誰なの?」
という問いには答えられない。
私の意見に責任を持たないようにしていたから。


私とは誰か。


25歳にして、もう一度、見つめなおそう。
そして、同じ過ちを繰り返さないよう、振り返れる足場を作ろう。
そんな想いで、書き綴っていくつもりだ。


ただ、あくまで発信する以上は、自分らしく、
ゆるさといたずら心は保っていければいいなーとも思う。


2009/05/11 Mon  01:26:41» E d i t
 » 自由 

最近いろいろと面白い。


うちの会社では、自由を獲得する為にワークをするんだ。

という。

昨日、その実物を見た。

オフレコなので、ここで書くのは控えるが、

自由とはこのことか!!

と思った。



3年後、

「海外で天才に囲まれて勉強したい」

そう心から言えるような自分でありたい。








2009/04/26 Sun  03:28:00» E d i t
 »  

つまり、言いたいのは

「僕」の存在を担保しているのは

「僕」の意識でも

「僕」の肉体でもないかもしれないってこと。



「僕」の存在を担保してくれているのは

「絶対的に」

「君」かもしれないってこと。


「君」がみる「僕」という人間が

絶対的な「僕」であるかもしれない



肉体が「モノ」であり「モノ」でなく
意識が「ココロ」であって「ココロ」でないならば


君は僕であり
僕は君かもしれない

僕は環境であって
環境は僕であるかもしれない



少なくとも
相互に影響し合っている関係ではあるんだろう




ひとは独りでは生きていけないと言われる




当たり前だ。




ぼくがぼくであるためには、ぼくをみるきみがひつようだからな。

2009/03/23 Mon  17:14:14» E d i t

さて、第一部。


この更新ペースで書き終えられるか甚だ疑問ですが

いったん、そういうことは忘れましょう。


本題です。
今回のテーマは


「僕」って誰?


ってとこです。

では、いきましょう。


現在、世界には60億人と言われる人間が生活しています。

これを書いている今も人間は生まれ、亡くなっています。

人間はこのサイクルを何千年、何万年と繰り返している。

この世に存在した人間の数で言ったら、もう、ねぇ・・・。

数えるのが嫌になるくらい、人間がこの地球という舞台で人生を生きていったわけです。

しかも、あり得ないことに、同じ人間が2人として生まれてきていないという事実。

どんな確率やねん。奇跡か!ぼけ!

と愚痴りたくなるのは僕だけでしょうか。

そりゃ、就職活動なんかしてたら


「僕にしかできないことってなんだ?」

「自分らしさってなんだ?」


なんて自問自答繰り返すわけですよ。

だって僕は奇跡的な確率で生まれた、唯一無二の存在なんだから。。。



このように、「一切を疑い」、自分をあたかも他から独立した完全なる「個」として捉えると

まぁ、「自分」という「人間」が出来上がる気がします。

コギト寄りです。うん。


でも、ホントにそうなの?


僕は少し違うと思います。



デカルトはコギト命題を哲学の第一原理に据えて、

物心二元論の哲学を確立したことで「近代哲学の祖」と言われています。

物心二元論ってのは、簡単に言うと

「この世界は、肉体や物体などの【モノ】に属するものと、
霊や精神など【ココロ】に属するもので構成されている」

って考え方です。

うむ。意味はわかる。だから?元なんやな。だったら初めからそう言いなさい。

それにしても、この原理でいくと

「自己」と「他者」のつながりをどう説明すればよいか

という課題が残ります。



僕がなぜこんなことに疑問を抱くようになったかというと

大学を(無駄に)6年間通っていくなかで

まがりなりにも「科学」というものに触れさせていただきました。

そして研究の一環として【量子力学】という学問をのぞいてみたとき

驚きの事実を知ってしまったのです。


「原子や電子は粒子として存在しているわけではない」


ガーン。

中学校の理科で習った

「原子という粒が、結晶を作っていて、原子の周りを電子って粒が回っている。」

・・・

うそかーい!!(全部じゃないけど)

詳細は省きますが、僕がここで感じたのは


「モノはあるようでないものかもしれない」(⇒ココロに似ている)


ってこと。

そして

「科学は信じる⇒試す⇒検証するのサイクル」(⇒宗教に似ている)

ってこと。


モノとココロ。

科学と宗教。


僕は、今までの錯覚から目が覚めたような感覚に陥りました。

いろんなものがつながってゆく感じ。

そら、デカルトの二元論に違和感を持つっしょ。

個人を他者と切り分けて考えることに疑問持つっしょ。



「あるようでない。ないようである。」

じゃあ、人間ってなんだろう。



※この認識の転換から「僕の相対性」について言及していくところなんですが
 時間がそれを許さないので、今はいったんここで終わりにします。





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